もはや日記というより年記といった風情。今年のことをあえて書き残してみる。


1月、待望の第一子の出産に立ち会い。産まれた瞬間は「すげー!」というのが率直な感想。その後おくるみに包まれた息子を初めて抱いた時に、今まで経験したことのない気持ちになった。嬉しいとか愛おしいとか楽しいとか、そういうのがまったりと混ざり合いそれでいてしつこくない。いくらでも入る感じ。


長男誕生の2日後、2歳下の従妹の最期に予期せぬ形で立ち会った。覚悟せざるを得ない、という容態になって初めて連絡をもらい、あわてて見舞いに行ったその日に従妹は亡くなった。人の臨終に立ち会ったのは初めてだった。一人娘を亡くして憔悴しきった伯父伯母を慰めつつ、後のことを一緒に手続き。今まで経験したことのない気持ちになった。2日前の出来事とのあまりのギャップ。


2週間後、従妹の一人暮らしの部屋を片付けるのを手伝った。伯父伯母に加え従妹の彼氏も来ていた。彼は従妹の闘病をずっと支えていたが運悪く葬儀後まで従妹の死を知ることができず、それをとても悔いていた。伯父伯母は彼の存在を娘の葬儀後に知り、やはりそのことを悔いていた。わたしの存在が場の空気を少しでも和らげていた、と思いたい。


夏、58歳で母が逝った。昨年から癌で入退院を繰り返していたのだが、今年の6月からいよいよ調子が悪くなりそれからの衰えぶりは早かった。面倒を見ていた父自身も目の調子が悪く、病院から入院を勧められる状況。実家には年老いた祖父母(祖母は寝たきり)。一人息子としては割と追い詰められた感じになった。父が目の治療で入院中、休暇をとって母の介護をしていたら祖母の容態が急変。救急車呼んでそのまま入院したときは、祖父と2人で笑うしかなかったなあ。


いったん仕事に戻っていた8月上旬の金曜日、父から母がいよいよ危ないとの電話。当然ながら父はすぐに帰ってきてほしいと言うのだが、わたしはあえて帰らなかった。いずれにせよ翌日土曜日には帰る予定であったので、今日は帰らないと。
正直、死に目に会えなくても仕方ないと覚悟していた。もし確実に看取りたければ長期の休暇をとってずっと付き添っている必要があったが、先が見えない状況でその判断はできなかった。肉体的にも、精神的にも、あえて言えば経済的にも。傍から見てる人には親不孝と映ったかもしれないが、父は私を親不孝とは言わなかった。それで良い。
結局母は翌日の晩までがんばってくれた。おかげでわたしは親不孝者にならずに済んだ。


母の死後、父との会話が格段に多くなった。これまで必要以上の話をあまりしてこなかったせいで、会話がいまいちしっくりこない。が、今さらどうしようもない。お互いに行間や真意を汲み取りながら話していくことになりそう。あと30年経ってもたぶんそんな感じ。祖父と父を見ているとそう思う。ということはわたしと息子もそうなるのかしら。


いろいろあった中で、息子の存在は本当に大きかった。家族全体を暗い空気が覆いそうな状況で、皆が息子を見ると笑ってた。この子は今年生まれるべくして生まれてきたのだ、と思っちゃうくらい。まあ救われたわね。真冬に息子を産み、真夏に乳飲み子を抱えて実家に居残ってくれた妻にも助けられたわね。


本当にクソ暑い年だった。
そんな2010年。