会社から歩いて10分くらいの場所に、良いカレー屋さんがあった。
「今日はガッツリ食いたい!」とか「とにかくテンション上げねば!」
みたいな時に食べに行ってた。

カウンターのみの店で、基本メニューはロースカツカレー520円。
味、ボリューム、値段のバランスがとても良かった。
みんなの味方、正義のカツカレーであった。

あった、というのは、つい先日閉店してしまったから。
従業員の退職で店のオペレーションがまわらなくなったから、だそうで。
店頭に貼られた閉店のお知らせを見て、最終営業日には食べに行こうと決めていた。

当日はとても蒸し暑かった。

昼どきに訪ねると、20人くらいの行列ができてた。
30分並んで入店。
お客さん達が汗を浮かべて、ロースカツカレーだけを黙々と食べている。
わたしも汗をかきながら、やたら量が多いロースカツカレーをひたすら食べた。
あー、生きてるなー、という感じがした。

帰り際、ご主人に「ごちそうさまです、うまかったです」と声をかけたら、
カツを揚げまくりながら「ありがとうございます」と笑顔で返された。

店を出ると、相変わらず長い行列が続いてた。
みんな汗かいて食べるんだろうなあ、と思った。

携帯の充電を忘れてて、写真は撮れなくて、むしろ良かった気がす。


令和最初の更新。
7年ぶり。
そんな1日。

迷ったけど書き残しておく日記。


日曜日ということもあり、だいぶ前から今日は仙台で過ごそうと決めていた。

誤解を恐れずに言えば、去年の今日、つまり地震の当日に故郷にいられなかったことを残念に思っている自分がいる。地震直後の混乱とか、ライフラインの断絶とか、何時間も並んでわずかの物資を得たこととか、それ以上の悲惨な体験とか。わたしは今後も故郷と関わっていくわけだけど、それらの強烈な体験を共通の記憶として共有できない、共有できなかった。震災時にどこにいたかで故郷への思いの深さが変わるわけではないと思うけれど。むしろ行きたくても行けないという辛さは遠くにいなければ経験できないことだけれど。これから先どんな支援とかボランティアをしようとも、あの時その場にいられなかったことがずっと心のどこかにひっかかり続けるように思う。

せめて1年後の今日くらいはと思い、仙台市の震災追悼式に参列した。正直自分自身のために、故郷で黙祷したかったから。


幼い子供がいる親として、震源の近くにいなくて良かったという思いも当然ある。どちらも身勝手な本音で、たぶん一生整理できない。


そんな3月11日。

宮城県北西部、両親のルーツの町へ。母の実家で伯父伯母従弟とお茶を飲みながらお話。23歳の従弟は車が流され、勤め先の工場は泥の掻き出しがようやく終わったところだそう。他にも2ヶ月の赤ん坊を抱えて避難した従妹の話とか、地震のショックで亡くなった親戚の話とか。
帰宅後、今回の帰省の締めくくりとして母の仏壇を掃除。震災前からそうだが、仏壇をきれいにすると気持ちが落ち着く。


東北新幹線、初乗車のはやぶさに興奮しつつ帰京。電車でこんな高揚感を覚えるのは副都心線の開通時以来だなあ。
車内で地元出版社荒蝦夷発行の「仙台学 vol.11」を読む。17人の書き手が今回の震災について綴っている。震災直後の率直な心境をストレートに吐露している内容。もちろんそれぞれが物書きのプロなので読み物として成立している。震災後の整理がつかないモヤモヤした心境をわかりやすく言語化してくれているから、自分の気持ちの落としどころが見つかるだろうと思う。みんな読んだらいいけど、あえて言えば、被災地に縁がある人にこそ響く内容だと思う。


明日は脱力しよう。
そんな3日。

引き続き仙台帰省中。引き続きいろいろ見たり聞いたり。


昨日はかなり飲んだ。
第1ラウンドは宮城県警に勤めている大学時代の友人と。震災後、昨日がようやく2回目の休みだったそうで。津波の被害に遭った実家の様子や、毎日遺体安置所で仕事している様子などを聞く。多少不謹慎トークも交えつつ、普通な感じで普通じゃないことを話して飲んだ。
友人と別れた後、第2ラウンドは中高時代の友人がやっている仙台駅前の海鮮居酒屋に行ってみた。もう閉店の時間(短縮営業中?)だったけど、顔を出したら心よく迎え入れてくれた。お客さんが帰った後だったので逆にゆっくり話ができた。魚は全国各地から仕入れているそうで営業に支障は無い様子。常連のお客さんがたくさん来てくれてありがたいと。こういう状況だとチェーン店より個人経営のお店の方が強いのかもしれない。
2軒とも楽しく飲んだ。ただ、別れ際に「今日はありがとう」とお互いに言い合うあたりがいつもとちょっと違うところか。どうやって帰ったか覚えてないくらい泥酔。2軒目の後吉野家に行ったことは辛うじて覚えている。並盛とコールスローだったかしら。飲んだ後のドカ食いはかなり久しぶりだ。


で、今日。
事情がありどうしても仙台に帰省できない友人がいて、代わりに御実家を訪ねてみた。家屋にかなりの被害が出ていて、かける言葉もない。私が行って何か手伝うわけでも無いのに、逆に歓待というか、わざわざ来てくれてありがとう的なもてなしを受けて恐縮する。ただ話を聞いて相づちを打つだけで役に立つのならいくらでも打ちますわよ。そういうの嫌いではないし。

それから勤務先の仙台営業所を訪ねていろいろお話。所員は後輩ばかりだがその若さが救いになっている気がした。状況を深刻に受け止めつつ、いい意味であっけらかんとしているところもあり。仕事するうえで今は明るさとか馬力みたいなものが特に必要だと思うから。

夜は父と晩酌。六ヶ所村の核燃料再処理施設で周辺の道路整備等に携わった時の話を聞いた。父の話は現場の、本当に末端の話だと思う。そんな末端に至るまで、限りなく黒に近いグレーが横たわる現実。無知は罪、無関心は罪ってことだなあ。


祖父も父も、私がつくった夕食を美味しいと言って食べる。
私も早く息子がつくった料理食べてみたい。

そんな2日。

昨日から仙台の実家に帰省中。いろいろ見たり、話を聞いたり。


父は40年以上東北で土木関係の仕事をしている。震災後は道路等の応急処置に追われているようだ。今朝も修復作業の見積を依頼されたとかで、休日返上で現場に行っていた。今はとにかく手当たり次第に穴を埋めているような状況らしい。今後本格的な復旧作業が始まったら業界全体がお手上げ状態になるんじゃないか、と。

寝たきりの祖母は地震の後容態が悪くなり、近所の病院に入院している。見舞いに行って手を握ると、私の名前を呼びながら微かに握り返してくる。目は閉じたままなので、意識的か無意識なのかはわからない。

祖父は少し元気が無い。祖母の見舞いと晩酌が日課民主党とか自民党とか言ってる場合じゃないのにな、と嘆いている。いつも座っている座椅子のわきに、震災の犠牲者・行方不明者の数を日毎にまとめたメモが置いてあった。


今日は仙台港高砂、荒浜当たりの景色を目に焼きつけてきた。
小さい頃からずっと住んでいた場所にも行ってみた。よく遊んだ公園はがれきの集積場になっている。


センチな気持ちになっているわけではなく。むしろ街の状況、家族の状況を直接に確かめたことで、モヤモヤしていたものが少し晴れた。

そんな30日。

休暇をとって息子とマンツーマンday。保育園の入園式。久々に新年度ぽいイベントに参加した。息子にはこれからいろいろなイベントが控えているわけで、正直うらやましい。私もまたどこかに入学したい気分。

帰宅後、お昼食べさせたり仕事したり一緒に遊んだりぼんやりしたり。ずっとSSTVで音楽流しながら過ごしてたら、楽しい気分になった。NO MUSIC, NO LIFE ってホントなんだろうな。

自分が関わっている仕事も、世の中の張り詰めた雰囲気を和らげる一助になっていればいいのだが。

なにかしら仕事に打ち込む大義が欲しい感じ。今出来ることをやるしかないという気持ちと、何か世の中に貢献しなくてはという焦燥感の間を行ったり来たり。冷静と情熱のあいだ

そんな1日。

肌寒いが気持ち良く晴れた一日。

朝、仙台の父から米を送った旨の電話。これまでも定期的に送ってくれていたのだが、何もこんな時まで送らなくても。これではどちらが被災地かわからん。先日息子のために千葉からペットボトル飲料を大量に運んでくれた義母といい、親ってやつは。届いたら炊いて息子に食べさせよう。

昼食は外食。ガーリックチャーハンをドカ食い。それと久々に新しいワイシャツを購入。気分転換。
息子には初めてのミニカーを買ってあげた。自衛隊の車と消防車。気に入ったようで喜んで遊んでいる。今起こっていることが理解できる歳になるまで、大事にして欲しい。早速消防車のハシゴを壊しかけてたけど。


大変な状況で苦しんでいる人たち、身を削って作業してくれている人たち、これまで散々原発からのエネルギーを享受してきたこと、郷土への思い。いろいろな感情がない交ぜになって、良くも悪くも全て受け入れる空気になっている気がする。おおげさに言えば「殉じる」という感じ。
その流れが復興の大きな原動力になるのは間違いない。ただ、皆で渡れば怖くないみたいなことになって、渡らない人がダメ出しされるようなことが無いといいなあ。とか言ってみるテスト。


明日は新しいワイシャツで出勤しよう。
そんな27日。