今週は連日朝早く、夜遅かった。余震が来ても手を休めることなく普通に仕事するようになった。没頭しているというより、仕事に逃げている感。良くない傾向だとは思っている。

今日は12時起床。BS2「将棋界の一番長い日」を見ながら食事。「3月2日 東京」というキャプションが一番印象に残ってしまうなど。あの日の前か後かで、その出来事の持つ意味合いが違って感じられるなあ。良かれ悪しかれ

今週はほとんど息子とコミュニケーションがとれてなかったが、その成長ぶりに感心。手掴み食べがすっかり上手になってたり、おもちゃでの遊び方が進歩してたり。初めて絵本を読んであげた。

午後は一切テレビを見ずに、夕食後20時に就寝。深夜1時に目が覚めてしまって、twitter眺めたり考え事したりなど。

明日は外に出よう。
そんな26日。

休日より平日の方が余震頻発してる気がする。地震様も休日はお休みされるのかしら。
残業して23時頃の電車に乗ったら、途中駅で「この電車が最終となります」とかアナウンスしている。全然知らんかった。最終に乗れて良かった。今後電力の状態が通常に戻っても、引き続き23時終電でいいんじゃないかと思ったり。
昨日応募したNPO法人から返信が来ていた。派遣が決まったら連絡しますとのこと。変な言い方だが、競争率高いのかな。行く気マンマンなんだけどなあ。

そんな22日。

あるNPO法人のボランティア募集に応募してみた。採用されれば、1週間程現地での支援活動に携わることになる。不安を抱えている妻と息子を残し、かと言って父や祖父母のいる実家に行くわけでもない。家族が大切なのはもちろんだが、今回は衝動に身を任せてみた。もし行くことができたら全力を尽くしたい。ここは脱力届だけど。

そんな21日。

午前中床屋。切ってもらっている間にも余震。帰宅後、録画しておいたNHKの将棋を見ながら昼食。39手で決着。あまりの結果に笑ってしまった。今日の対局は消さずに残しておこう。その後BSでインテル長友の試合を眺め、眠くなったので息子と昼寝。夕方に起きて入浴、夕食、息子と遊び。こうして書くと穏やかな日曜日なんだが、本当に穏やかな休日を過ごすにはまだまだ時間がかかるだろうなあ。
地震から9日目、宮城県山間部の母実家とようやく連絡がついた。叔父叔母とも無事。ただ、多賀城に住んでいる叔父叔母の子供(=私の従姉妹)の車は流されてしまったらしい。アパートの2階にいて助かったが、1階は浸水してダメになったそうで。生きるか死ぬかの違いはとても大きいが、それらを分けているのはほんの紙一重の差だ。
23時過ぎから仕事して今4時過ぎ。仕事よりストレスが大きいことを抱えると、むしろ仕事がストレス解消になったり。

そんな20日

3月11日、地震当日。
その時は会社にいた。最初微妙な縦揺れを感じて「揺れてる?」って口に出した数秒後にでかい横揺れ。固定されていたパーテションがずれたり天井の一部が落ちたりするのを見ながら、地元方面が震源だろうなあとぼんやり考えた。2日前にも震度5弱の揺れがあって実家に電話したばかりだったから。
揺れが収まった後、各方面に電話。別のビルで働いてる同僚の無事だけは確認できたが他はつながらず。妻とはTwitterで連絡がついた。その後妻実家の無事も確認。
夕方まで社内に待機。18時頃、帰れる者は帰宅OKとの通達が出たので同じ方面の同僚と徒歩で帰ることに。多くの人が歩いていたが店は普通に営業しているし車も走っているため、大規模な避難訓練のように思える。3時間程で帰宅。寝ている息子の様子を見てホッとすると同時に少し疲れを感じた。
帰宅難民の友人を受け入れ、3人で夕食。テレビとTwitterで状況の深刻さを把握。23時30分頃、ダメもとで父の携帯にかけたらつながった。もうすぐ家に着くところだと言う。普段なら1時間で帰れるところを6時間以上かかっており、祖父母の安否も確認できていないと。家に着くまで電話をつないだままにしてもらい5分程待つ。家に着いた父の電話口から祖父の声が聞こえてきて一安心。寝たきりの祖母も無事だった。真っ暗でよくわからないが家財も大きな被害は無い様子。ひとまず安堵して電話を切った。


3月12日。
朝からテレビに釘付け。昼、友人たちに安否確認のメールを発信。夜までに多くのメールや電話をもらった。仙台の友人たちは皆冷静に、タフに過ごしていた。むしろ東京にいる私の方が冷静さを失っているかもしれない。


3月13日。
引き続きテレビに釘付け。故郷のあまりの惨状に言葉を失う。Twitterのフォロワーで被災地に住んでいる方々にメッセージを送る。返信不要と書いたのに丁寧な返信をくれた方がいて、逆にこちらが励まされる。
宮城県警で働いている親友からメール。実家がもろに津波の被災地で心配していたが、両親は無事だったと連絡をくれた。ただ、家は相当ひどい状況だそうで。警察官として激務をこなしているであろう彼に、返信をした。


3月14日。
出社。電車運休の影響で半数程が不在。今勤務している課では私が一番出社しやすいとわかっていたので、早めに出社した。こういう時の調達業務って買い占めと同義な気がする。それでも皆が全力で仕事しなければ元に戻らない。傷が浅い地域はいち早く元の状態に戻す責任があると思う。ただ、当然それは私個人の考えでしかなくて。ごちゃごちゃ考えすぎて精神的に疲れた。


3月15日。
朝、地震当日以来久々に父と電話がつながった。電気と水道が復旧。食べ物の備蓄もある。父、祖父母がそれぞれ常用している薬もまだある。毎日買い出しで数時間並んでいる。ガソリンの入手が非常に困難。そんな状況。
会社は社員が8割くらい出社。実家と連絡がついた安心感もあり、前日よりはるかに集中できた。


3月16日。
不測の事態に備えて残業を控えていたが、この日は20時頃まで残業。薄暗いフロアに一人でいるところに仙台の友人から電話。変わらない呑気な口調に笑った。仙台からの連絡に、私の方が元気づけられてばかりいる。
帰り、自宅近所に今日開店したスーパーに寄り道。物がたくさん。スーパーと問屋の担当者は必死にかき集めたんだろうなあ。けどティッシュとトイレットペーパーと紙おむつは売り切れ。いっそ配給制にしちゃえば?


3月17日。
仙台への高速バスが動き出した。予約は全然とれないが。
同僚が仙台営業所のスタッフたちへのカンパを呼びかけ。特に親しい有志限定で。結構な金額が集まったようだ。私も参加したかったが、実家へのフォローを優先してほしいと言われ受け取ってもらえなかった。本当は私にカンパの件を伝えるつもりは無かったが、話してしまったと。気遣いがうれしかった。
夕方、大規模停電が起こるとか起こらないとかで大騒ぎ。寒さで暖房需要が増えたためのようだが。いろいろ悲しくなる。


3月18日。
今回の震災についてようやく会社から社員へのメッセージが発信された。内容は平凡。14日に発信されていたらまだ良かったのに。時間が経った分、平凡というよりチープだ。
仕事は朝から様々な対応に忙殺された。余計なことを考えずに没頭せざるを得ない状況なのはむしろありがたい。ただ、残業終わって帰る段になって急に虚無感。私のやってることは故郷の復興に役立つのか?的な。
会社の近所、義援金がたくさん集まる組織。窓から見える限り、広い会議室には誰もいないのだが、煌々と明かりがついていた。何か事情があってのことだと思いたい。
一の蔵をたくさん飲んで就寝。


3月19日、今日。
池袋にある宮城県のアンテナショップ。お兄さんが「もう工場無いんで、これが最後」って言いながら試食販売していた冷凍のつみれを買う。レジ脇の募金箱に募金した。この店の募金なら信じられる。
パソコンで義援金の入金先やボランティアや原発のことなんかを延々調べつつ、日記書き。


そんな1週間。